法観寺に伝わる「仏舎利塔記」
祇園・八坂神社前の東大路という大通りから、路地(ろおじ)を曲がると、五重塔が目の前に迫ってきます。
その五重塔の名は、八坂の塔と呼ばれる臨済宗・建仁寺派の塔頭である法観寺です。
法観寺に伝わる「仏舎利塔記」によると、聖徳太子は四天王寺を建てる為に用材を求め、山城国のこの場所を訪れたといいます。
そのころ、まだこの東山一帯は、うっそうとした大樹がそびえる深い山でした。
この時、太子へ如意輪観音からここへ寺を建設するように夢告があります。
そこで太子は、ここに五重塔を建て仏舎利を安置することにしたのです。
崇峻天皇の時代、589年のことですので、法観寺は京都でいちばん古い寺ということになります。
創建以来、何度も火災により焼失しましたが、その度に再建されて、現在の塔は1440年に足利義教(よしのり)によって再興されたものです。
この八坂の塔は、江戸時代までは五重塔では珍しく、五層まで上って街の遠望を楽しむことが出来ました。
あまり知られていないのですが、じつは東寺の五重塔など、ほとんどの五重塔は上からキャップを重ねたような構造になっていて、住居建築のようには、各階層が階段などではつながっていないのです。
つまり、それぞれが、一階ごとに独立した構造の仕組みになっているということなのです。
だから、内部の中を五層まで登ることの出来た八坂の塔とは、非常に珍しいタイプの五重塔なのだと言えるんですね。
高さは44メートルですが、地盤が東山のすそ野部分の傾斜地に建てられていますので、かなりの見ごたえがあったに違いありません。
奇跡を起こした浄蔵法師
八坂の塔といえば、思い出されるのが浄蔵(じょうぞう)という僧の存在です。
村上天皇の時代、952年3月、浄蔵法師は法観寺の住職でした。この時、東山へ遊行に来ていた花見客たち数十人が騒いでいました。
八坂の塔が北西の方向、すなわち王城のほうへ向かって傾いたからです。
これは不吉な兆しと、浄蔵法師は祈祷をはじめます。
それは亥の刻(午後10時)のことでした。すると、強風が吹き荒れ、雷鳴がとどろき、鈴が鳴り響き、大地が大きく揺らぎはじめたのです。
翌朝、弟子たちが塔の前に出て仰ぎ見上げると、塔は真っ直ぐになっていました。京の人々は争って合掌し、この奇跡を喜びます。
と、まあ、この様なストーリーにキャスティングされる浄蔵法師とは、どういう人物だったのでしょうか。
伝説によると、浄蔵の母は嵯峨天皇の孫で、天人が懐の中に入り、浄蔵を身ごもったと伝えられています。
4才にして千字文を読み、7才にして出家し、12才で宇多上皇の仏弟子となり、熊野や比叡山で荒行を行いました。
あらゆる才能を持って、法力で難病を治し、死者を蘇生させ、災害を予言します。
さらに、堀川一条戻り橋で、父の清行を蘇生させ、村上天皇の中宮も加持祈祷で蘇生させてしまうのです。
なるほど、彼なら傾いた八坂の塔を真っ直ぐ戻してくれるはずですね。